「ちょっと手を見せてごらん」
おばちゃんはそう促すとテーブルの上に広げられた僕らの手を覗き込んだ。
「ダメだねえ綺麗すぎる。男の手じゃないよ。おっちゃんの手を見てみな。どうだい、これが男の手だ。あんたらもこうならなきゃ」
おばちゃんの隣に座っているおっちゃんは、そう言われて多少照れながらもまんざらでもなさげな表情を浮かべつつ、グラスの水を飲み干した。
ここは筑豊運転免許試験場の、駐車場に隣接する古びた食堂。
テーブルにはおっちゃんとおばちゃん、A君と僕の4人が食事を済ませた後のひとときを他愛無いおしゃべりで過ごしていた。
僕らは今日、自動車運転免許の取得試験を受けに来た。
僕らは、と書いたが4人にもともと面識はない。初めて顔を合わせた。
試験会場内でなぜか意気投合し、昼休みにこうして食卓を囲んでいる。
口数の少ないおっちゃん。よくしゃべるおばちゃん。学生だというA君。そして僕。
決して社交的な性格ではない僕も、こういう場ではいつになく会話が弾む。
免許試験場なんてそう度々訪れるものではない。
状況は、間違いなく非日常だった。
午前中に筆記試験を終え、採点を待つ。結果発表は午後。
自動車学校はすでに修了しているので実技試験は免除される。
長かった。僕は要領が悪くて、修了まで半年近くかかってしまった。
そんな苦労も、今日で終わる。はず。落ちたくないなあ。大丈夫だと思うけど。
みんな試験を終えたばかりでほっとしているせいか、気分が昂揚している。
おばちゃんだけは、たぶん普段からこんな感じなのだろう。とにかく元気。
おしゃべりは止まらない。
「これ見てよ。あたしの娘。けっこう可愛いだろ?あたしに似て」
とうとう家族の写真まで引っ張り出してきた。
可愛いと言わなければ殺されるかもしれない。
あまり興味はなかったが、差し出された写真を見た。
あ。
と思わず声が出た。
自宅とおぼしきアパートの前で、小首をかしげて微笑む少女。まさか。
コバヤシ。間違いない。
んじゃおばちゃん、こいつの母親?
全然似てませんけど。
意外な展開に、気が動転する。声がうわずる。
「僕この子知ってます。中学の時同じクラスでした。コバヤシさん、ですね」
違うよ、とおばちゃんは言った。
え、と呆気にとられる僕。でも、この子は。
何言ってんだろねこの人、と隣のおっちゃんに笑いかけるおばちゃん。
先ほどとは態度が明らかに違っていた。
饒舌ぶりは影を潜め、時間を気にし始める。席を離れたがっている様子。
ああ、そうか。
少し遅れて、僕は気づいた。
非日常だからこそ、会話が盛り上がれるんだ。
旅先で出会った人々と交流する時のような、オープンな感覚。
相手が自分のことを知らない、という前提が、プライヴェートな内容まで打ち明けさせる。普段なら絶対に他人に話さないようなことまで。
二度と顔を合わせることはない。その「かりそめ」が重要なのだ。
僕はおばちゃんを、非日常から日常へ引きずり戻してしまった。
冷水を浴びせるかのように。
さっきまでの和気あいあいとした関係には、もう戻れない。
ちょっと寂しいけど、これでよかったのかも。
さあそろそろ行こうかね、とおばちゃんは席を立つ。
僕らもそれに続いて腰を上げた。
店を出て、丘の上に建つ試験場への狭い鉄階段を縦一列に並んで上る。
先導するおばちゃんの大きなお尻を見上げつつ、僕は僕の日常へと戻る。
試験、本当に大丈夫だったかな。
2008年08月18日
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