オートレース













お父さん引退するんだってよ、と母が言った。

私は、ふうん、と鼻を鳴らした。
正直言って、その程度の関心しかない。

私がまだ小さい頃。
父親がオートレース選手であるということは
誇らしくもあったけど、恥ずかしさの方が大きかった。
オートレーサーの娘なんて、何だか「うさん臭い」。
当時はそれなりに偏見もあったし。

男子から、はやし立てられることもあった。
いじめられたことも、少しはある。
できれば普通の職業の「お父さん」がほしかった。
今はもうどうでもいいけどね。

家にいる時は、ずっと寝てばかりいるぐうたらな
ただのオジサンだった。
実際は家にほとんどいなかったけど。

一緒に遊んだとか、どこかへ遊びに行ったという
思い出はひとつも浮かんでこない。
うちは実質的に母子家庭だったのだ、と思う。
母は不平不満を一言も漏らさなかった。
少なくとも、私の前では。

レース場に行ったことは、あまりない。
子供の頃に母に連れられて何度か行ったことはある。
騒音と異様な熱気に驚いて、始終泣いていたらしい。
ぼんやりとしか覚えてない。
何やら恐いところ、というイメージが強くて。
ものごころついてからは全く訪れていない。
お化け屋敷の次に、嫌いな場所。

年頃になると、どこの家庭でもそうだと思うけど、
私も父と距離を置くようになった。
もともと距離はあったわけだけど。
私ははっきりと、父を毛嫌いしていた。
そして同様に母親も、この家も、この町も。
何もかもが、わけもなく、嫌いだった。

父を知る人は、一様に父を讃える。
昔はすごかったんだよとか。飯塚の誇る大スター
だったとか。
悲しいかな、すべて過去形。
私はそんな声を聞くたびに、自分の知る父親像との
ギャップに悩まされた。
たぶん人違いだ。
誰か他の人のことを言ってるんだ、と思っていた。

私は成人すると早々に家を出て、縁もゆかりもない
都会へと移り住んだ。両親の反対を振り切って。
一刻も早く離れたい。こんな土地から。
できるだけ遠くへ。
私のことなど誰も知らない場所へ。
父のことなど誰も知らない場所へ。


やがて月日は流れ。
私は結婚し、出産し、離婚して。
結局またここに舞い戻ってきてしまった。
あれだけ嫌っていた、この土地に。
私はすっかり打ちのめされていた。

幼い息子は今、私の腕の中で静かに眠っている。
父も母も、何も言わず迎え入れてくれた。
何か言ってくれればいいのに。

父はまだかろうじて現役だったが、すでに賞レース
からはずいぶんと遠ざかっていた。
聞くところによると、すでに身体の自由がきかなく
なりつつあるらしい。手が震えたりとか。
人前でそんな素振りは絶対に見せないけど。


引退記念レースだってさ。
母が自分の孫を抱き上げながら、からりと言う。
まるで他人事、噂話のような口調で。
もはや何の感慨めいた感情も湧いてこないようだ。

これまで共に連れ添ってきて、数えきれないほどの、
そして口にできないほどの苦労を味わってきたはず。
そんなのは、とうの昔に振り切ってしまっていて。
あーようやく終わってくれる、という気分だろうか。
夫婦って、そんなものなのだろうか。

私はぼんやり呟く。
最後のレースってさ。他の選手達、気ぃ使って
ちょっとは花持たせたりしてくれんじゃないの?
抜けそうなところでもアクセル手加減してさ。

母は言う。
無理じゃない? いつもどおりでしょ。
こてんぱんにやられるよきっと。

二人で声を上げて笑った。
その声に息子がびっくりして飛び起き、泣き始める。
あやしながら、また笑う。

久しぶりに行ってみようか。母とこの子と一緒に。
あの喧噪と興奮の場所へ。

そして思いっきりヤジってやろうか。
この老いぼれ、早くやめちまえ!って。


2007年10月29日







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