寿司屋の光一君 NYで謝罪
「スシ・プリンス」光一にNY沸いた!(gooより)
Kinki Kidsの堂本光一が主演する映画「銀幕版 スシ王子!〜ニューヨークへ行く〜」(監督堤幸彦)のプレミア試写会が28日、米ニューヨークで行われたらしいが。
映画の詳細は分からないが当の堂本光一が英語で「アイム・スシ・プリンス」と舞台挨拶をし、会場を沸かせたというからコメディだろうか。日本を飛び出した若い寿司職人が当地で寿司職人と対決する物語となっている。
テーマを寿司にしぼり、舞台をニューヨークにするという「狙いすぎ」の感は否めないが、ファンでも何でもない私にはそんなの関係ねえ。ラスタピィーヤ。ただ、堂本光一の舞台挨拶が気になっただけだ。
「こんばんは…日本語ですいません。皆さんに映画を見てもらえることをうれしく思います」
謙虚さを全面に押し出そうという意図はくみ取れるが、やはり謝ってはマズいだろう。社内のプレゼンならいざ知らず、場所はニューヨークだ。「こんばんは…私は日本人でこれから日本語で挨拶をしますが、どうかお許しください」と言ってるようではないか。そんな自国と自国の言語に自信を持てない人達の作った映画をどう評価しろと言うのだろうか。
もちろん通訳は付いていたと思う。気の利いた通訳がその部分を訳していなければ幸いだが、もしかして会場が笑いに包まれたのが「アイム・スシ・プリンス」と言ったところではなく、「日本語ですみません」と謝ったところであればこの映画は失敗したも同然だろう。
以前沢口靖子主演の「竹取物語」がアメリカで上映された時の話しだが、ラストのかぐや姫が月へと帰る別れのシーンで手を振るおじいさんおばあさんに向かってかぐや姫役の沢口靖子が笑みを浮かべた。別れのシーンでの笑みだったということでそれを見たアメリカ人は苦笑したという。日本人にとって、別れの笑みというものは哀しみを助長させる行動として効果的であるが、アメリカ人には理解されなかった。アメリカ人にとっての竹取物語はついにはコメディとなったわけである。
日本人がより繊細だと言われる所以はおそらくこういった本来の意味とは正反対である行動にもかかわらず意味解釈として可能である点ではなかろうか。例えが貧弱で申し訳ないが「つまらないモノですが」と言って立派なモノをあげたり、身内を褒められると否定し、「若輩者ではありますが」と見るからに立派そうな人が言ったり、見たこともない親戚に「近くにお越しの際はお立ち寄りください」とか、思ってもいないことを口にしたがる民族であることに間違いはない。「謙譲の美学」という言葉通りの「まず謙虚さありき」の文化ということだ。
文化の違いと言ってしまえばそれまでだけど、白黒はっきりさせる向こうの人達は決してこれらの感性を理解しようとしないのが実情だ。思った通りに解釈されて困るのは日本人の方で国際舞台では例外なく損益となる。確固たるアイデンティティに対してはそれを凌ぐほどの気概を持っていないと、国際社会から引きずり下ろされるだけでなく、残念ながら嘲笑の対象になるだけだ。
古来から連綿と続く日本人の感性はどこの国に劣らず優れたものだと思っている。しかしその美しい感性が場所を選んでこそ生きてくるのは仕方がないことだ。日本語があって英語があるように、日本人の感性があって、欧米諸国の感性がある。文化の差異を限りなくフラットに持って行くという目的のためには、今までよしとされてきた謙虚さでさえ障害となるという事実を自覚する必要があるだろう。
国際舞台で活躍する日本を代表するエンターテナー、堂本光一にはそういった文化の溝を埋めるという役割をも担っていることを忘れないでほしいものだ。
と、偉そうなこと言ってすみませんでした。
Kinki Kidsの堂本光一が主演する映画「銀幕版 スシ王子!〜ニューヨークへ行く〜」(監督堤幸彦)のプレミア試写会が28日、米ニューヨークで行われたらしいが。
映画の詳細は分からないが当の堂本光一が英語で「アイム・スシ・プリンス」と舞台挨拶をし、会場を沸かせたというからコメディだろうか。日本を飛び出した若い寿司職人が当地で寿司職人と対決する物語となっている。
テーマを寿司にしぼり、舞台をニューヨークにするという「狙いすぎ」の感は否めないが、ファンでも何でもない私にはそんなの関係ねえ。ラスタピィーヤ。ただ、堂本光一の舞台挨拶が気になっただけだ。
「こんばんは…日本語ですいません。皆さんに映画を見てもらえることをうれしく思います」
謙虚さを全面に押し出そうという意図はくみ取れるが、やはり謝ってはマズいだろう。社内のプレゼンならいざ知らず、場所はニューヨークだ。「こんばんは…私は日本人でこれから日本語で挨拶をしますが、どうかお許しください」と言ってるようではないか。そんな自国と自国の言語に自信を持てない人達の作った映画をどう評価しろと言うのだろうか。
もちろん通訳は付いていたと思う。気の利いた通訳がその部分を訳していなければ幸いだが、もしかして会場が笑いに包まれたのが「アイム・スシ・プリンス」と言ったところではなく、「日本語ですみません」と謝ったところであればこの映画は失敗したも同然だろう。
以前沢口靖子主演の「竹取物語」がアメリカで上映された時の話しだが、ラストのかぐや姫が月へと帰る別れのシーンで手を振るおじいさんおばあさんに向かってかぐや姫役の沢口靖子が笑みを浮かべた。別れのシーンでの笑みだったということでそれを見たアメリカ人は苦笑したという。日本人にとって、別れの笑みというものは哀しみを助長させる行動として効果的であるが、アメリカ人には理解されなかった。アメリカ人にとっての竹取物語はついにはコメディとなったわけである。
日本人がより繊細だと言われる所以はおそらくこういった本来の意味とは正反対である行動にもかかわらず意味解釈として可能である点ではなかろうか。例えが貧弱で申し訳ないが「つまらないモノですが」と言って立派なモノをあげたり、身内を褒められると否定し、「若輩者ではありますが」と見るからに立派そうな人が言ったり、見たこともない親戚に「近くにお越しの際はお立ち寄りください」とか、思ってもいないことを口にしたがる民族であることに間違いはない。「謙譲の美学」という言葉通りの「まず謙虚さありき」の文化ということだ。
文化の違いと言ってしまえばそれまでだけど、白黒はっきりさせる向こうの人達は決してこれらの感性を理解しようとしないのが実情だ。思った通りに解釈されて困るのは日本人の方で国際舞台では例外なく損益となる。確固たるアイデンティティに対してはそれを凌ぐほどの気概を持っていないと、国際社会から引きずり下ろされるだけでなく、残念ながら嘲笑の対象になるだけだ。
古来から連綿と続く日本人の感性はどこの国に劣らず優れたものだと思っている。しかしその美しい感性が場所を選んでこそ生きてくるのは仕方がないことだ。日本語があって英語があるように、日本人の感性があって、欧米諸国の感性がある。文化の差異を限りなくフラットに持って行くという目的のためには、今までよしとされてきた謙虚さでさえ障害となるという事実を自覚する必要があるだろう。
国際舞台で活躍する日本を代表するエンターテナー、堂本光一にはそういった文化の溝を埋めるという役割をも担っていることを忘れないでほしいものだ。
と、偉そうなこと言ってすみませんでした。







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