ながぬまさんの苦悩
編集の藤村よりメールが来た。「菊地成孔について書け」と。
とっさにメールブラウザから目を背けてしまった私は、お題にそった文章を書く事が、たくあんの次に苦手だ。おまけに「菊地成孔」と来た日には、何から手をつけてよいのか分からない。まあ感じたことを思いのままに書くとしよう。
ご存知かどうかは知るところではないが、菊地成孔は、日本に置いてアーティスティックなミュージシャンとして希有な存在の人物である。その活動範囲はジャズからアニメソングまで多岐に渡り、万人を魅了させる音楽とは一線を画すアンダーグラウンドなサウンドは、私達に音楽を越えた質感を提供してくれる。
時に難解な、その音作りには聴く者に嫌悪感すら抱かせるほどの不協和に満ちており、彼のバイオグラフィーに照らし合わせてみても納得のいくところだろう。
彼はアートというものに対して貪欲なまでに変態である。と短絡的に片付けられるほどの陳腐な才能ではない。己の底知れぬ精神世界の深みを何の味付けもなしに引き出すことができる、言わば霊媒師。正気と狂気の狭間で生きたジョン・レノンのように、彼もまたそこにいる。
「南米のエリザベス・テーラー」という彼のアルバムはCDから煙が出るくらい聴いた。アルバムのオープニングからエンディングまでの圧倒的な雰囲気はとてつもなく視覚的であり、この地球上での場所という感覚を喪失する。目を閉じればフワフワと浮かんだ見たこともない風景の中にいるような既視感だけが生々しく、まるでその頭の中に産まれた溢れんばかりのイメージ同士が擦れ合って音を放っているようにも感じる。
いささか小難しい事を書いたようではあるが、菊地成孔という対象は、言葉の持つ意味という力を越えた所でイメージを紡ぎ出しているのだから、私達はただ傍観者として存在するしか手立てはない。彼の想像力の血流に押され身を任せる他術はないのではないか。
部屋の照明を落として、強めの酒を口に含みながら菊地成孔の奏でるメロディと向き合う時、自我の感受性のフィルターは全開となり、後に残るは粘り付くような心地良いノイズ、ノイズ、ノイズ。
ということで
そんなブっ飛んだ彼の良き理解者であるながぬまさんについてはいずれ書くことにしよう。
↑菊地成孔のマネージャー、ながぬまさん。
とっさにメールブラウザから目を背けてしまった私は、お題にそった文章を書く事が、たくあんの次に苦手だ。おまけに「菊地成孔」と来た日には、何から手をつけてよいのか分からない。まあ感じたことを思いのままに書くとしよう。
ご存知かどうかは知るところではないが、菊地成孔は、日本に置いてアーティスティックなミュージシャンとして希有な存在の人物である。その活動範囲はジャズからアニメソングまで多岐に渡り、万人を魅了させる音楽とは一線を画すアンダーグラウンドなサウンドは、私達に音楽を越えた質感を提供してくれる。
時に難解な、その音作りには聴く者に嫌悪感すら抱かせるほどの不協和に満ちており、彼のバイオグラフィーに照らし合わせてみても納得のいくところだろう。
彼はアートというものに対して貪欲なまでに変態である。と短絡的に片付けられるほどの陳腐な才能ではない。己の底知れぬ精神世界の深みを何の味付けもなしに引き出すことができる、言わば霊媒師。正気と狂気の狭間で生きたジョン・レノンのように、彼もまたそこにいる。
「南米のエリザベス・テーラー」という彼のアルバムはCDから煙が出るくらい聴いた。アルバムのオープニングからエンディングまでの圧倒的な雰囲気はとてつもなく視覚的であり、この地球上での場所という感覚を喪失する。目を閉じればフワフワと浮かんだ見たこともない風景の中にいるような既視感だけが生々しく、まるでその頭の中に産まれた溢れんばかりのイメージ同士が擦れ合って音を放っているようにも感じる。
いささか小難しい事を書いたようではあるが、菊地成孔という対象は、言葉の持つ意味という力を越えた所でイメージを紡ぎ出しているのだから、私達はただ傍観者として存在するしか手立てはない。彼の想像力の血流に押され身を任せる他術はないのではないか。
部屋の照明を落として、強めの酒を口に含みながら菊地成孔の奏でるメロディと向き合う時、自我の感受性のフィルターは全開となり、後に残るは粘り付くような心地良いノイズ、ノイズ、ノイズ。
ということで
そんなブっ飛んだ彼の良き理解者であるながぬまさんについてはいずれ書くことにしよう。
↑菊地成孔のマネージャー、ながぬまさん。











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