柔らかいヤワラちゃん
鈴木宗男 谷亮子の試合の判定に異議アリ「審判が未熟」(Ameba Newsより)
まあ何も鈴木宗男衆議院議員でなくともあの判定には首をひねってしまう。北京オリンピック女子柔道48kg級準決勝の谷亮子とアリーナ・ドミトル(ルーマニア)の一戦だ。どう見ても谷に組まれるのを嫌がっていたのはアリーナ・ドミトルの方であったにもかかわらず審判の判定は谷に「指導」。なかなか組み合ってくれない相手に対して谷もまた急な攻撃を警戒して様子を伺っているように見えたが、そうさせたのはもちろん相手選手である。組み合わない戦略だったのかどうかは知らないが、誰が見ても組み合って試合をしようという意思やアクションを感じさせた谷には不運としか言いようがない。
そもそも柔道とは「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」を真髄とする。単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としている、とWikipediaにはある。すなわち健全なる肉体には健全なる精神が宿るという、敵を倒すことを第一の目的にしない修業なのである。礼節を重んじ、伝統を守り、体を鍛え、魂を浄化させる為に敷かれた、まさに柔の「道」なのだ。
しかしそれは柔道の発祥国日本での話。1964年に開催された東京オリンピックで正式競技となり今年で44年。今では「柔道」は「JUDO」となり世界に認められたスポーツとなった。それをとやかく言いたくはないが、かつて柔道の創始者である嘉納治五郎が定めたであろう数々の「規律」は今や敵を倒すための「国際ルール」と名を変えて海外の人にも理解できるものとなったわけである。
今回の組み合おうとしないアリーナ・ドミトルの戦略もまたそんな国際ルールに乗っ取った型で展開されたように見えたが、私たち日本人からしてみれば「道」と名の付く武道競技において卑怯という他言葉が見当たらない。もちろん選手達は国家という大看板を背負って戦っているのだから精神論を戦わせている場合ではなく、勝利のために手段を選ばないというのも分からなくもない。実際、谷も「指導」を受けた直後の数十秒は落ち着きを失って焦りを隠さずにいた。国民の期待というものはどんなにその道を極めた人であっても心を乱してしまうものである。彼女の勝利への執念は尋常ならざるものがあったに違いないが、試合終了間際のあの焦燥感に満ちた顔はあまり美しいものではなかったと思う。
その後行われた3位決定戦では、これが柔道だと言わんばかりの目が覚めるような払い越しで一矢を報いたが、谷の真骨頂を目の当たりにして私の心のどこかで「ああ、順位はどうあれこれが金メダルの柔道なんだ」と思えて仕方がなかった。オリンピックという国際大会の性質上、文化や精神世界の違う外国人に対して「柔道」の持つ本質を押し付けることはナンセンスであるが、勝負である以上、北京オリンピックが最後のチャレンジになるであろうヤワラちゃんには満足がいく結果を残して欲しかった。
明らかに彼女は「JUDO」に負けたのだ。







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