HERO(ヒーローになる時、それはまだ)

HERO(ヒーローになる時、それはまだ)



一生に一度言うか言わないか、滅多なことで口にすることのないセリフというものがある。例えば男性にとってプロポーズなんてのもその一つかもしれない。「一生君のことを離さない」とか「必ず君のことを幸せにする」などと結局は詐欺まがいの空言に終わるのが常であるのに、今日も明日も懲りずに男はつぶやき続ける。

結婚や恋愛に関してのセリフというものは端から見るとどうも女々しく恥ずかしくて聞いてられない。それに比べてテレビや映画に登場するヒーローのセリフは力強く単純にカッコいい。その中でも特筆すべきはやはり

「名乗るほどの者ではございません」

このセリフに尽きないか。悪者を撃退し、弱者を守る。命を救ってもらった弱者は感謝と尊敬の念を持って、立ち去ろうとするヒーローに対してこう言う。「あの、せめてお名前だけでも」。背中を向けて夕陽に向かっていたシルエットは一瞬立ち止まって振り返るまでもなく肩越しに首を向け吐き捨てるように言う。

「名乗るほどの者ではございません」

特別な修練を積んで肉体と精神を磨き上げたその技で強きを挫き弱きを助ける高名な人物ほど謙虚なものである。逆に言うとヒーローに限らずどんな世界においても「本物」は例えその名を告げなくとも人々を感涙せしめる術を持っているということだ。ペラペラと拡声器の大音量で自分の名を連呼するどこぞの国の政治家と違って「名乗らない」ということは100%完璧な自信の現れであり、まさにヒーローのセリフに相応しく最も力強いものではないだろうか。

幼少の頃からこのセリフに憧れ続けていた私は、未だにそれを口にしたことはない。特にヒーローでもなく、特別な才能があるわけでもないが、いつかは誰かの役に立って肩越しに名乗らない日々を夢見続けていた。しかしだ。その絶好のチャンスが42年の時を経てやってきたのである。

とある交差点で信号待ちをしていた車。私はその後ろにつけて停車した。信号が青に変わった時、その前の車が発進したかと思えばガックンガックンと前後に揺れた後、交差点の真ん中で動かなくなってしまった。ヘタクソだなあと思いながらも再発進するのを待っていた私のところに初老の男性が車から降りて近づいてきた。

「ガソリンがなくなってしまいました」

焦りの色を隠せず不安な表情で私に助けを求める彼に私は車を押してあげることにした。反対車線以外の3方向からの車線をすべて塞いでいたその車を多数の人に見守られながら渾身の力を込めて前方脇にある歩道まで押すことにした。いいことをしているという実感はない。ただ恥ずかしかった。見ている誰か一人でも手伝ってくれればと思いながら全身に力を入れる。ジワジワとであるが車輪が回転を始める。左先頭の車中から見ているヤンキーねえちゃんの視線が痛い。右先頭車両の中にいる営業マンと思しき人の苛立った顔が申し訳ない。グーグルのストリートビューの撮影車両がもしかしたら一部始終を記録しているかもしれないと思うと下手な顔もできない。しかし今はただ車を押すことだけが、ただ車を動かすことだけが人生の命題として重く私にのしかかる。タイヤの回転に勢いが出てきた。車体が随分軽く感じられる。後は勢いに任せて運転手が歩道にうまく車を寄せてすべては終わった。振り向くと何事もなかったように交差点を通過する車はスムーズに流れていた。

助手席側の窓から中の男性にこれからどうするのかを聞いたが、携帯で家族を呼ぶとのことでこの一件は落着を見る。「気をつけて」とだけ言い残し、手のひらの汚れを払い落としながら自分の車へ戻ろうとしたその時だった。

「あのー、お名前は何とおっしゃいますか?」

車中から大きな声でその男性が私に問いかけた。車を移動できたことに安堵し、全身の力が抜けていた私は突然の問いかけに驚き、振り向き様に大きな声でこう言ってしまった。

「大賀です」

「大賀さんですね、ありがとうございました」

人生に一度言うことがあるかないかのセリフ。その機を逸した代償は今後の人生にどのような形で私の上に覆いかぶさってくるのか、今はただ後悔という言葉でしか語れないのが残念である。時間を巻き戻すことが可能ならば、もう一度車を押したい気分でいっぱいであることは言うまでもない。

人生折り返し地点。まだまだ名乗るほどの者でござる。



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1コメント あり “HERO(ヒーローになる時、それはまだ)”

  1. この投稿で400件目ですね

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