残念なカルテット
世の中には自分にそっくりな人が三人いるというが。
仕事で某施設のパンフレットを作成中、入稿された画像データの中にそいつはいた。慰安旅行に行った時に撮影されたもののようで、宴会のまっただ中、浴衣の胸元をだらしなくはだけ片膝を立てて、なみなみとビールが注がれたグラスをかざしている。ほろ酔い加減に赤く染まったその顔は、まさしく私だったのだ。いや、落ち着いて考えなくともそんなツアーに参加した覚えはないし、隣に写っている人物にも見覚えはない。今まで感じたことのない緊張感で頬が少しこわばる。
コ・レ・ハ・オ・レ・ジャ・ナ・イ
自分自身の顔を写真で見る時、違和感を覚えることはないだろうか。いつも鏡などに映る正面からの顔は見慣れているのだが、いざ写真で違った角度からの自分の表情を見ると決まって「こんなんだったか?」と思ってしまう。自分自身の写った写真をたくさん持っている人はそうでもないかもしれないけれど、写真に写ることが苦手な私にしてみれば、正面以外からの自分の顔というものは、他人の顔を見る感覚に近い。今回の見ず知らずの誰かの画像も、以前見た同じような角度から撮られた自分の写真の記憶と一致したから似てると感じたのかもしれない。それにしてもだ。似ていることに変わりはない。
同僚の女性におそるおそるモニターを見せて聞いてみる。「これ、俺に似てない?」訝しがる彼女は食い入るようにモニターを見る。感嘆の声とともに集めた仲間は4人。誰もがみんな口を揃えて「似てる」「そっくり」のシュプレヒコール。私は所在なげにもう一度そいつを見る。周りの肯定的な意見に促されたのか、画像の中のそいつと同じ乾杯のポーズをとってみる。「完璧ですよ」。そうか、完璧か。今、お前は俺で俺はお前なんだな。そう思った時、脳裏に箕原君がよぎった。
中学の時、隣町から転校してきた箕原君。朝のホームルームでなにやらとなりのクラスが騒々しい。よく聞けば、私の名前を呼ぶ声も聞こえる。嫌な予感は的中するもので、新しく紹介された箕原君の顔が私と同じだったのだ。休み時間に隣のクラスに呼ばれた私は箕原君と対面。クラスのボルテージも最高潮の中、伏し目がちな彼に「よろしく」とだけ言ってクラスに戻った。
何の因果か知らないけれど、私が在籍していた野球部にこれまた箕原君が入ってきた。二人のそっくりな顔を活かした戦術で地区大会を勝ち抜いていけばカッコよかったのだが、特に何のメリットもない。さすがに内野ゴロをファーストを守っていた私に投げずに思わずレフトの箕原君に投げたりとか、三振に倒れ、うなだれたままベンチに引き上げたはよかったものの、見れば箕原君が監督に怒られていたとか、「きみきみ、さっき打ったばかりだろうが」と審判に注意されたり、スタンドで私のことばかり見ている女生徒の存在に、天にも昇る気持ちでいたら実は箕原君の彼女だったとか、そういったエピソードはなかったが、あったらあったで笑いを取って敵の集中力を根こそぎ奪える戦術として成立していたかもしれない。
自分とそっくりな人に出会ったら、そのどちらかが死んでしまうとも言われている。私がどうにかこうにか生きているところを見ると、申し訳ないがどうやら箕原君が死んでしまったのかもしれない。ご冥福をお祈りしたい。
世の中には自分にそっくりな人が三人いる。私に関して言えばあと一人。日頃からDonDokoDon(ドンドコドン)のぐっさんの相方、平畠に似てると言われている。そう言われてみればあの幸薄い、勢いの感じられない貧相な風貌はいいところをついていると思う。信じたくはないが容姿に対する判断は自分自身で解釈する以上に他人の目は正確だ。
見ず知らずのパンフレットのあいつ。箕原君。どんどこ平畑。そして私。とても残念なカルテットは人生という美しい舞台で偶然というハーモニーを奏でる、ことはない。
ああ、箕原君に変わって死にたい気分だ。
仕事で某施設のパンフレットを作成中、入稿された画像データの中にそいつはいた。慰安旅行に行った時に撮影されたもののようで、宴会のまっただ中、浴衣の胸元をだらしなくはだけ片膝を立てて、なみなみとビールが注がれたグラスをかざしている。ほろ酔い加減に赤く染まったその顔は、まさしく私だったのだ。いや、落ち着いて考えなくともそんなツアーに参加した覚えはないし、隣に写っている人物にも見覚えはない。今まで感じたことのない緊張感で頬が少しこわばる。
コ・レ・ハ・オ・レ・ジャ・ナ・イ
自分自身の顔を写真で見る時、違和感を覚えることはないだろうか。いつも鏡などに映る正面からの顔は見慣れているのだが、いざ写真で違った角度からの自分の表情を見ると決まって「こんなんだったか?」と思ってしまう。自分自身の写った写真をたくさん持っている人はそうでもないかもしれないけれど、写真に写ることが苦手な私にしてみれば、正面以外からの自分の顔というものは、他人の顔を見る感覚に近い。今回の見ず知らずの誰かの画像も、以前見た同じような角度から撮られた自分の写真の記憶と一致したから似てると感じたのかもしれない。それにしてもだ。似ていることに変わりはない。
同僚の女性におそるおそるモニターを見せて聞いてみる。「これ、俺に似てない?」訝しがる彼女は食い入るようにモニターを見る。感嘆の声とともに集めた仲間は4人。誰もがみんな口を揃えて「似てる」「そっくり」のシュプレヒコール。私は所在なげにもう一度そいつを見る。周りの肯定的な意見に促されたのか、画像の中のそいつと同じ乾杯のポーズをとってみる。「完璧ですよ」。そうか、完璧か。今、お前は俺で俺はお前なんだな。そう思った時、脳裏に箕原君がよぎった。
中学の時、隣町から転校してきた箕原君。朝のホームルームでなにやらとなりのクラスが騒々しい。よく聞けば、私の名前を呼ぶ声も聞こえる。嫌な予感は的中するもので、新しく紹介された箕原君の顔が私と同じだったのだ。休み時間に隣のクラスに呼ばれた私は箕原君と対面。クラスのボルテージも最高潮の中、伏し目がちな彼に「よろしく」とだけ言ってクラスに戻った。
何の因果か知らないけれど、私が在籍していた野球部にこれまた箕原君が入ってきた。二人のそっくりな顔を活かした戦術で地区大会を勝ち抜いていけばカッコよかったのだが、特に何のメリットもない。さすがに内野ゴロをファーストを守っていた私に投げずに思わずレフトの箕原君に投げたりとか、三振に倒れ、うなだれたままベンチに引き上げたはよかったものの、見れば箕原君が監督に怒られていたとか、「きみきみ、さっき打ったばかりだろうが」と審判に注意されたり、スタンドで私のことばかり見ている女生徒の存在に、天にも昇る気持ちでいたら実は箕原君の彼女だったとか、そういったエピソードはなかったが、あったらあったで笑いを取って敵の集中力を根こそぎ奪える戦術として成立していたかもしれない。
自分とそっくりな人に出会ったら、そのどちらかが死んでしまうとも言われている。私がどうにかこうにか生きているところを見ると、申し訳ないがどうやら箕原君が死んでしまったのかもしれない。ご冥福をお祈りしたい。
世の中には自分にそっくりな人が三人いる。私に関して言えばあと一人。日頃からDonDokoDon(ドンドコドン)のぐっさんの相方、平畠に似てると言われている。そう言われてみればあの幸薄い、勢いの感じられない貧相な風貌はいいところをついていると思う。信じたくはないが容姿に対する判断は自分自身で解釈する以上に他人の目は正確だ。
見ず知らずのパンフレットのあいつ。箕原君。どんどこ平畑。そして私。とても残念なカルテットは人生という美しい舞台で偶然というハーモニーを奏でる、ことはない。
ああ、箕原君に変わって死にたい気分だ。







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