苦悶する龍之介
第百三十九回芥川賞に中国人女性の楊逸(ヤンイー)さん(写真左)の「時が滲(にじ)む朝」が選ばれた。日本語を母国語としない外国人作家としては史上初めてのことだという。
このニュースを最初に聞いた時、何故か腑に落ちない選考委員の「狙い」を感じてしまった。というのも最近の芥川賞には小説の内容はともかくとしてどこかそれ以外のトピックス的なプラスアルファを付随させる傾向が強いからだ。例えば年端もいかない女子大生だったり、やんちゃなロックアーティスト、あるいはアイドル然とした綺麗な顔立ちの元歌手に中学生のホームレス(あっ、これは受賞していないか)等の受賞がそれだ。お固いイメージの裏舞台で保守性から脱却しようと躍起になっている組織委員会の目論みがどうにも鼻についてならないのは深読みのしすぎだろうか。
私は芥川賞作品をほとんど読んでいない。もちろん受賞作品はどれも素晴らしい作品ばかりであるとは思っている。価値観の多様化した現代社会は様々な小説の題材を提供してくれるものだし、受賞作家の緻密な構成力と繊細な心理描写を持ってすれば以前に比するまでもなく、バラエティに富んだ作品となって当然ではあるのだが、なぜか食指が動かない。要はレコード大賞受賞曲を聴かないのと同じ感覚である。以前村上龍が何かの書籍に「高度経済成長が終わった現在、芥川賞やレコード大賞にはもはや意味はない」というような事を書いていた。国民の目標が達成された今、ある種の右向け右の全体主義が崩壊し、その眼差しはすべて個人に注がれることになったということだ。みんなで選んだものが一番正しいという概念が消え去ったと。選考委員に村上龍がいることもおかしな話だが、受賞者に国民の目を引くための何かしら付加価値を求めているのもこういった要因がその裏にあるのかもしれない。
日本語で書く外国人作家でデビット・ゾペティというスイス生まれの作家がいる。芥川賞候補に名を連ね、映画にもなった「いちげんさん」はあまりにも有名だ。他にも正統派のバレエダンサーがフラメンコダンスの魅力に憑かれ転身していく「アレグリア」という作品も名作である。外国人であるがゆえ日常に当たり前に存在し見えなくなってしまった私たち日本人の感性を感覚的に強く認識できるのであろう、全編を通して流れる「瑞々しさ」がゆっくりと気持ちに馴染んでくる感じだ。
今回芥川賞を受賞した楊逸さんの「時が滲む朝」。外国人初の芥川賞受賞というセンセーショナルな大見出しに何の効力があろうか。読んでみるまで何とも言えないが、果たして芥川賞選考委員の狙いであるのか、あるいはデビット・ゾペティに負けず劣らずの才能なのか、久しぶりに芥川賞作品のページをめくってみる気になってきた。





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