思い出は美しすぎて

思い出

「思い出補正」という言葉が浸透しているようだ。
Google検索結果:思い出補正

昔の記憶は、美しい。
遡れば遡るほど、実態とはかけ離れ。
磨かれて、純化を重ね、結晶だけが残っていく。

昔はよかった、とつい口にしてしまうのは。
この思い出補正の効果に惑わされてしまうのかもしれない。
人は、記憶を糧に生きている。

だが、思い出補正を経て残った記憶の数々は。
確かに半ば創作に近いものへと変容しているかもしれないが。
その人にとっては、大切な宝物であることには違いない。
情報としての精度は低い。というよりもはや、ないに等しい。
つまりは、情報としての価値は求めていない。
人生においてどれだけ「有益」であるかが鍵となる。

過去に出会った人々。
かつて目にした風景。
それらはその人にしか持ち得ない財産。
生きてきた証し。

21才の若者と話す機会があった。
私の年齢のちょうど半分。息子といってもいい世代。
若干の人見知り癖はあるようだが、実にまっすぐないい青年で。
会話はいつしか古いテレビ番組の話題に移っていった。
ドリフひょうきん族など、過去の名作を驚く程よく知っている。
最初は私に気を遣っているのかと思ったが、本当に好きなようだ。
昔の番組の方が今よりはるかに面白いですよ。
何でもありだし。
彼はそう言って笑った。

映像の力を思い知らされた。
私の中では美しい「記憶」として奥深くに格納された宝物。
もう取り出すことはできないし、他者と分かち合うことはできない。
どれだけその面白さを力説したところで、むなしいだけ。
しかし、ソースとして残っているものは。
今でもその輝きを失っていない。
現代の若者にも当時の私と同様に影響を与えるだけの力を持っている。
お笑い番組の多くは「ミズもの」で、時代に寄り添っている。
社会背景を認識しておかないと、どこが面白いのかさっぱりわからない。
が、それを軽々と乗り越える普遍性を持つものも、中にはある。

でもきっと、彼の感じるものと私の中のものとでは、違うと思う。
同じソースを観賞しても、それは私にとっては過去に経験したもので。
その当時でこそ有効であったものも多い。
以前に訪れたことのある景色と、初めて訪れた時とでは当然ながら感じ方が違う。
彼にとっては「情報」であり、私にとっては「思い出」なのだ。
その溝が埋まることは決してない。

人間は、記憶を操作する。無意識に。
それは生きるために必要な作業。

我々は誰もが、自分の中のコレクションと向き合っている。

思い出補正の精度を上げることは、幸せへの第一歩かもしれない。


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