<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><!-- generator="WordPress/2.5.1" -->
<rss version="0.92">
<channel>
	<title>obsqr (オブスキュア)</title>
	<link>http://obsqr.symphonic-net.com</link>
	<description>藤村彩家（ふじむら・さいけ）と大賀玄米（おおが・げんまい）による雑文・音楽・静止画・動画作品を紹介する総合エンターテイメントウェブマガジン</description>
	<lastBuildDate>Sun, 06 Jul 2008 03:32:51 +0000</lastBuildDate>
	<docs>http://backend.userland.com/rss092</docs>
	<language>ja</language>
	
	<item>
		<title>【Updated Contents : Audio】Cyber Saibaba</title>
		<description>藤村彩家による過去の音楽作品を公開致します。
『Cyber Saibaba（サイバー・サイババ）』は2003年頃につくった曲で
おそらくは藤村がMacを使ってすべての音データを“録音”した初めての曲だったと
思います。もはや記憶が曖昧になっております。
音質が極端に悪いのはギターやヴォーカルの録音レベルがきちんと把握できて
いなかったためです。
いつか録り直そう録り直そうと考えながら、現在に至っております。

コンテンツページ『音声』から該当ページに入るか、移動が面倒な方は下記リンクを
ご利用下さい。再生にはAdobe Flash Playerが必要です。


[audio:cyber_saibaba.MP3]


Cyber Saibaba




裸のサイババ―ぼくたちの外側に「神」をみる時代は終わった。パンタ笛吹ヴォイス  2000-12-01売り上げランキング : 20781おすすめ平均  Amazonで詳しく見る by G-Tools




 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/admin/cyber-saibaba</link>
			</item>
	<item>
		<title>日本語の私と英語のアタシ</title>
		<description>バイリンガルは話す言語によって別人に？米研究（AFPBB Newsより）

2つの言語や文化の下で成長した人々は、その時話している言語によってそれぞれ異なる行動や性格を無意識に選んでいることが多いという研究結果が、26日発行の米学術誌「Journal of Consumer Research」の2008年8月号に掲載された。

まだ７月に入ったばかりだというのにもう８月号が出ているのか。さすが学術
分野はサイクルが早いなあ。ところで月刊誌はなぜに発行月よりひと月早い標記を
することが多いのだろう。出版社の単なる慣習だろうか。という話は置いといて。

複数の言語を操る人は使う言葉によって「人格」そのものも本当に変えている、
のかもしれない。そちらの方が何かと都合が良いと思う。
英語を話すための人格、スペイン語のときの人格、タガログ語を使う人格。
とりわけ後天的に外国語を習得した人は、脳の中に意図的にパーティションを
切ってヴァーチャルな別人格に処理を任せるぐらいのことでもしなければ、
スムーズなコミュニケーションは到底のぞめない。

マルチリンガルになれるかどうかには、ある種の“資質”が必要なのかもしれない。
アメリカ人になりきれるかどうか。ロシア人に。イタリア人に。バヌアツ人に。
それぞれにおいて、より細かい人格設定ができる「想像力」が求められる。
つまり他言語習得の鍵は、イマジネーションである、と。
なにがしかの役者心。それが外国語を覚える大きな助けになると思う。

ちなみにオスマン・サンコンの使う日本語がいわゆるオンナ言葉であったり
時おり女性的な仕草をする理由は日本人の奥さんから日本語を教わったため、と
言われている。
彼は言葉のみならず、妻そのものの人格（の大部分）をコピーしたわけだ。
言葉は、教わった相手からの影響を大きく受ける。
特に環境が限定的な場合は、その人を「すべての」手本とすることになる。
もし現在あなたが英語をしゃべれないとすればその原因は、これまであなたが
教えを受けてきた英語担当教師による「内面的介入」をあなた自身が無意識に
拒絶したためである。言語は身近な人・心を許せる親密な仲の人に教わるのが
好ましい。コミュニケーションの道具を授かるのだから。

使う言語によって人格をコロコロと変えることが一概に悪いとは私には思えない。
そもそも人格とは何なのか。
我々は状況に応じて、自意識をコントロールする。その多くは無意識に。
電話でしゃべる時。車を運転する時。歌を歌う時。別人になる人は少なくない。
また、職場での自分とプライヴェートの自分は同一か。家族と他人との接触時は。
我々はいくつもの顔を使い分けている。
ならば我々は多重人格者か。
そうではない。モードを切り替えているだけだ。
そのモード間の落差が大きいほど、はたから見れば面白い。

ただ、個々の「人格」があまりにも乖離してしてしまうと。
様々な面で混乱が生じる。
どれもが「自分自身」であることには違いないのだが。
極端な振幅を頻繁に繰り返していては、やがて破綻を迎えることになる。
日常の中で少しずつ擦り合わせていければ理想的だが、そう簡単にもいくまい。
そうやってバランスをとりながら生きてきたのだから。
その極端な振幅もまた、「自分」の中から生まれたものなのだ。

私も英語で話す時には（そんな機会はほとんどないが）きっとオーバーアクション
になるはず。
それは必ずしもアメリカ人になりきろうとしているわけではなく、つたない語彙を
ジェスチュアで補おうとするためだと思う。すなわちジェスチュアも言語の一部
なのである。

言葉はツールに過ぎない。
ツールに頼り過ぎてはならない。

大切なのは、そのツールを使ってつくりあげる「モノ」なのだ。




バイリンガルはどのようにして言語を習得するのか山本 雅代明石書店  1996-12売り上げランキング : 327921おすすめ平均  Amazonで詳しく見る by G-Tools



 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/multilingual-and-multiple-personality</link>
			</item>
	<item>
		<title>それでも人々は速い車を求める</title>
		<description>オールスターキャノンボール大会１　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　


オールスターキャノンボール大会２




『オールスターキャノンボール大会』は、1991年の正月にTBSで放送された
特別番組で、車好きの芸能人・著名人が公道（主に高速道路）を無許可で爆走し
順位を争うという無謀な企画。
司会は所ジョージ、プロデュースはテリー伊藤。
参加者は
01. 高田純次: スカイラインGT-R・NISMO
02. ヒロミ: メルセデス・ベンツ 560SEL
03. 岡安由美子: 三菱・ミラージュ・サイボーグ
04. 林家しん平: フォルクスワーゲン・タイプ1・カブリオレ
05. 三原じゅん子: シボレー・コルベット
06. 井倉幸一 (イクラ): シボレー・コルベットZR-1
07. つまみ枝豆: NSX(AT)
08. 池沢さとし: フェラーリ・テスタロッサ
09. 徳大寺有恒: NSX(MT)

言うまでもなく現代では到底実現不可能と思われる無茶苦茶な内容なのだが、
その無茶ぶりが楽しい。
当時も当然ながら問題になったらしく、テリー伊藤は警察に出頭し書類送検されて
いるらしいが、おそらく本人にとっては痛くも痒くもなかったことだろう。
テレビ業界が最も輝いていた時代、といえるかもしれない。
そのはみ出し加減を心得ていたのが、テリー伊藤という人なのだと思う。過去形。

車は基本的に、より速く移動するための道具である。
だがその本来の性能を確認することは、日常ではほとんどできない。
車の、「あるべき姿」。
たぶんそれは車が最も美しい瞬間だと思う。
だからこそ人々は大挙して郊外のレース会場に詰めかける。
みんな、限界まで回転し疾走するマシンの姿を見たいのだ。
そしてこの番組も番組として（当時は）成立し得たわけで。

テレビだから、芸能人だから許されるというわけではない。
しかし、過去に悪ふざけが許容されていた時代が我が国にもあった、ということ。
それを確認する上で、これらの映像は貴重だ。

モータースポーツは今後、どんどん衰退していく（もしくは路線の変更を余儀なく
される）ことだろう。原油高の影響もあるし、人々の心理の変化もある。
だが車の「性能」を知る上で高速回転させることは避けて通ることができない。
快適な運転性や低燃費はサーキットからこぼれ落ちてくる技術だと思う。

私はスポーツタイプの車に乗ったことがない。
これからも乗ることはないだろう。
しかしそれらの車の美しさは、わかるつもりだ。

足枷から解き放たれた獣。
それはまぎれもなく非日常であり、我々が心惹かれる光景である。




池沢早人師 俺が愛したスーパーカー列伝 『サーキットの狼』コンプリートBOX池沢早人師ジェネオン エンタテインメント  2008-02-22売り上げランキング : 43210Amazonで詳しく見るby G-Tools



 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/canonball-in-japan1991</link>
			</item>
	<item>
		<title>【VIDEO】dan le sac vs Scroobius Pip - Thou Shalt Always Kill（日本語字幕）</title>
		<description>ビートルズらをこき下ろした歌詞で話題の「Thou Shalt Always Kill」日本語字幕PV（ひろぶろより）

ビートルズらを「こき下ろして」いるわけではない。
みだりに神格化（特別視）してはならない、と言っているだけ。
評価が固定してしまった「スタンダード」を無条件に受け入れるな、と。
個人の審美眼を通した上で自らが価値のあるものと認めるものを選び取れ、と。
至極真っ当な意見である。

新たなるポップミュージックの創造を考える際、ビートルズの影を無視するのは
至難の業である。
見事に完成されてしまっているのだ。
他の要素を少しでも足したり引いたりすれば、たちまちバランスが崩れてしまう。
まさに存在そのものが奇跡のようなグループ。

ただ、まったく新しい領域へ向かうには、その揺るぎなきスタンダードから
いったん距離を置くべきではないか、と私はつねづね考えてきた。
親を愛するがこそ、親と同じような人生は歩まない。
そういう心意気がすなわちロックなのではないか、と。
そうやって悪戦苦闘してきたのが、私の音楽の歴史である。

しかしここ最近の私は、そういう考え方もしなくなりつつある。
私がビートルズを好きなのは、世の認めるスタンダードであるためか。
否。
私が、素晴らしいと認めたためである。

私が知った時点ですでにビートルズはスタンダードだった。確かに。
ミーハーな面もある。特に当時は音楽であれば何でも手当たり次第に聴いていた。
その大半は記憶から消えていった。
残ったものにこそ価値があると思う。
中でもビートルズの楽曲は、圧倒的に多くの回数を耳にしたはずだ。
思えば、繰り返し聴きたくなる曲というのがいかに少ないことか。
私の中でビートルズは、世の中の評価とは関係なく、スタンダードと「なった」。
そしてその思いは30年近く経った現在、いささかも変わらない。
輝きを失うことのない宝物に巡り会えたことを、幸せに思う。

大切なのは、「自分にとっての」宝物を見つけることだ。
その宝物の価値を他人と分かち合えるかどうかは、また別の問題であり。
他人のための宝物を、やみくもに崇め奉るのは愚かなことだ。
ダイヤモンドは美しい。が私はダイヤモンドが欲しいとは思わない。
他に欲しいものはたくさんある。
その欲しいものは、たぶん他の人にとっては、さほど欲しくないものだと思う。

親に反発する時期を過ぎ、今私は親の轍をたどっていこうと考えている。
これは成長のあかしなのか、それとも諦観か。レイドバックか。懐古趣味か。

どうでもいい。
ただ、そうしたいから。

したいと感じる心、これこそが宝物なのだ。





ビートルズとは何だったのか (理想の教室)佐藤 良明みすず書房  2006-02売り上げランキング : 89447おすすめ平均  Amazonで詳しく見る by G-Tools





 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/beatles-is-just-a-band</link>
			</item>
	<item>
		<title>遠隔ドリッピングの脅威</title>
		<description>コーヒーメーカーの脆弱性が発覚（スラッシュドット・ジャパンより）

※写真はランボルギーニ社のコーヒーメーカー。本文との関連はなし

インターネット経由でPCからお好みのコーヒー設定などが実行できるコーヒー
メーカーがあるらしいのだが、その接続キットに深刻な脆弱性があり、外部からの
不正なアクセスにより設定を変更したり、本体を故障させたり、はてはこの
コーヒーメーカーをコントロールするWindows XPのシステムにアクセスすること
も可能である、という話。

コーヒーメーカーを経由して他人の侵入を許してしまう、というこの不思議な現象。
おもてなしもへったくれもない。ところでへったくれって何。
便利さは、危険をはらんでいる。
帰ったらすぐに淹れたてのコーヒーにありつけるのは誠に幸せなことだが。
そのコーヒーをゆっくり味わってもいられない状況を、最新鋭のコーヒーメーカー
が招いてしまう可能性もあり得る。実に現代的な危うさ。

私がこのニュースを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、『世界で最も有名な
コーヒーメーカー』の話。

時は1991年、インターネットの黎明期の頃。
アメリカのケンブリッジ大学コンピュータ研究所のTrojan Roomに設置されていた
コーヒーメーカー。
広い構内を延々歩いて研究室にたどり着いたにもかかわらずコーヒーがなくなって
いるという事態を解消すべく、ある関係者がカメラを研究所内のネットワークに
接続してポットの中の状態をどこからでも監視できるシステムをつくりあげた。
やがてそれがインターネットのウェブサーバにも接続され、世界中の人々の目に
触れることになった。世界最初のウェブカメラと言われている。

そのコーヒーを口にすることなどできるはずのないはるか遠くの人々が、米国の
大学の一室にあるコーヒーポットの状態を知るためにアクセスしてくる。
これこそが、インターネット。
私も当時（実際にはかなり遅れて、90年代の後半に入っていたが）実際にアクセス
してみたことを覚えている。
そこには本当に、何の変哲もないコーヒーポットが映っていた。
だが「噂の」コーヒーポットを確認することができて、いたく感激したものだ。
世界とつながっている。
小さくて不鮮明なモノクロ画像が、極東に住む名もなき男にそう感じさせてくれた。

現在はこのコーヒーメーカーもお役御免となっている。2001年08月21日に
撤去されたという。
が、当時のページはアーカイヴ的に残されている。
映っている画像に変化はない。まさに時代と共に止まっている。
世界中から見つめられ続けたポットは、様々な意味でその役目を静かに終えた。

いまやインターネットは、コーヒーポットを監視するのみにとどまらず。
コーヒーポットそのものを自在にコントロールするところまで来ている。
ネット家電と呼ばれる分野は今後さらに進化していくことだろう。

だがその便利さと引き換えに、日常生活における大切な部分を失ってしまう恐れは
ないか。

コーヒーを淹れる、という作業。
これもまた、コーヒーを味わう一過程に含まれる、と考えるのは無意味だろうか。
私自身は、レギュラーコーヒーを愛飲するほどの通ではないが。
コーヒーを抽出する際のある種「儀式的」ともとれる作法は、古来の茶道にも
匹敵するほどの情緒を感じる。

美味ければ、それでいい。
確かにそうなのだが、美味いと感じるのは、あくまでも人間である。

情緒を味わうのに、システムの力を借りる必要はない。





エスプレッソブック―基本技術とアレンジドリンク門脇 洋之柴田書店  2004-05売り上げランキング : 5782おすすめ平均  Amazonで詳しく見る by G-Tools




 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/network-coffeemaker-crisis</link>
			</item>
	<item>
		<title>あなたと発電したい</title>
		<description>踊りの力で地球を救うクラブ（Engadget Japaneseより）

振動で発電するダンスフロア。
ナイスアイデアだ。
人間の、踊るという行動。
これを単なるエネルギーの浪費で終わらせるのはあまりにももったいない。
願わくばすべての行為に、何らかの生産活動が伴えば。
人生はもっと有意義になるのではないだろうか。

日頃からここを訪れてくださっている大方の常連さんには、すでにお察しのことと
思う。この後の展開。
そう、セックスだ。
性行為のあのとんでもない運動量。あれを発電に活かせないものか。
行為のパワーで布団が乾くとか。ご飯が炊けるとか。携帯が充電できるとか。
その成果が数値化できれば、様々な面において励みにもなるはずだ。
500kw達成するまでイかないぞ。
いい？　ワンストロークにつき10wよ。それ以下じゃオトコとして認めないから。
ひどいじゃないか、君とはこれまで8000kwも愛を確かめあってきたというのに。
スゴい、スゴいわ。シビれちゃう。人間発電所ってあなたのことなのね。
などとベッド上でポジティヴなやり取りが日夜繰り広げられるに違いない。
男性の多くが抱える性の「むなしさ」も幾分かは解消できるかもしれない。
ちなみに『セックス発電』というアイデアは1978年の時点ですでに存在する。
イタリア映画で。さすがは愛の国。原題は『Conviene far bene l'amore』といい、
「愛に励むことには価値がある」といった意味だそうだ。

男女の協力に基づいて得られる電力であれば、もちろん申し分ないが。
女体を模した発電マシンが普及すれば、男性の力ひとりで電力供給に貢献できる。
夏場は慢性的に不安を抱える国内の電力事情。
彼らの大いなる“ひとりよがり”がそれをわずかでも軽減させることにつながれば。
世の男性たちは決して孤独感を味わうことはない。
ボ、ボクは社会に貢献しているんだ。
無駄じゃないんだ。ボクは生きていてもいいんだ。そうだよねムツミちゃん。
と息を切らしつつ愛用の発電機に囁きかける青年。
ムツミちゃんの口からは聞き慣れた声が響く。
あなたの今回の発電量は722kwでした。発電所へのキックバックにはあと278kw
足りません。もう少し頑張りましょう。

やがて我々は、すべての行動に発電という機能を付加することだろう。
それは人間のありとあらゆる行動に「意味」を持たせることになる。
トレーニングジムで汗を流す人々。
彼らはただ無駄にカロリーを消費しているわけではない。
熱量、すなわちエネルギーを創造するのだ。

そしておそらくは、目的がどこにあるのか、を見失う。
発電量こそが男の価値。
生涯発電量が設定され、それに向かってひたすら突き進む。
曖昧にしてきた「人生の目標」が、明確に眼前に現われる。
我々は死ぬまでメーターを睨み続けることになるであろう。

映画『マトリックス』では人体が機械のための電力供給源として養殖されている
という設定だった。あれに近い状況が迫りつつあるのかもしれない。

ネオ、君こそが救世主だ。
だから僕の発電量を肩代わりしてくれ。




私と放電(通常盤)椎名林檎EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)  2008-07-02売り上げランキング : 732Amazonで詳しく見るby G-Tools




 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/generating-with-the-dancefloor</link>
			</item>
	<item>
		<title>職場としての戦場</title>
		<description>アフリカで暗躍してきた「雇い兵」たち（AFPBB Newsより）

傭兵（ようへい）という職業がある。
金銭で雇われて戦闘に参加する兵士のこと。
つまり戦争（紛争）地帯が彼らの職場であり、請われるがままに戦地を求めて
世界中を転々とする。政治的な理念などは一切ない。金を払う側に味方する。
有名なフランス外人部隊などはある意味由緒正しい傭兵集団なのだが、所属して
いる限りはフランス人と同等の権利が与えられるので彼らを「傭兵」とは呼ばない
らしい。このあたりにも「戦争」というもののタテマエ的な部分が見え隠れする。

現代の戦争は、イデオロギーとは無縁である。
そのほとんどが、経済的な思惑に起因するものであり。
金の流れにともない、人も動く。
要するに、通常の経済活動と何ら変わりないわけで。
いわば世界中のどこでも「戦場」となり得るし、どこでも傭兵が活躍する舞台と
なり得る。

我々は社会という戦場に身を投じ、戦果を上げることで生き長らえる。
彼ら傭兵とどこが違うというのだろう。
我々が属しているのは、何か。
国家か。民族か。信念か。それとも自分自身か。

日本人の傭兵は、実際に存在する。
今後、ますます増えていくことだろう。
ともすれば利害を超え、「生きがい」という名のまぼろしを糧にして。
彼らを止めることができるだろうか。

たぶん日本人は、軍人にもっとも向いている民族だと思う。
いにしえの「武士」はいわば傭兵であった。
サムライ魂などというイメージの力を借りれば、銃弾の飛び交う中を突っ込んで
いくことも“美学”にすり替えることができる。自分の中の「人間性」を欺く術を
伝統的に知っている。正義という概念は、それぞれの都合に味方する。


“援助ブーム”で潤う　ダルフールの街角から（COURRiER Japon + hitomediaより）

紛争の舞台となった地に海外からの援助の人々が集うことによって街の経済が潤う。
この事態をどう受け止めるべきか。
地元の人々にとって紛争とは何だったのだろう。
彼らは幸せに近づいたのだろうか。雨降って地が固まったのだろうか。
それとも、この事態そのものが幻想なのか。

争いが、金を呼ぶ。
北朝鮮などはそれをよく知っている。
何もない場所で手っ取り早く経済を回すには、火種を起こすこと。
ハッタリでも何でも構わない。
人が集まれば、金が集まる。

経済へのテコ入れとしての戦争は、日本でもたびたびあった。
世界中が経済面で疲弊している現代において、戦争への誘惑を断ち切るのは難しい。

形ばかりの平和を謳歌する、我が国。
ひとたび火種を持ち込めば、たちまち燃え広がるかもしれない。

世の中は、乾燥している。



参考：傭兵と日本（Dr Blueより）




外人部隊の日本兵宮下 洋一並木書房  2006-09売り上げランキング : 71999おすすめ平均  Amazonで詳しく見る by G-Tools





 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/war-as-business</link>
			</item>
	<item>
		<title>埃まみれの誇り</title>
		<description>生徒が育てた作物の売上金横領、オートレースに使う（イザ！より）

オートレース、と聞いてまさか、と思い読んでみたら、本当にそうだった。
私の地元だ。

飯塚オートレース場は1957年（昭和32年）2月22日に開設。昨年で50周年を
向かえた。昔も今も飯塚市の経済を支える貴重な公営事業。
他の地域の人々（主に年配者）にとっては飯塚＝オートレースのイメージが
現在も強い。飯塚という地域の“顔”といってもいい。

ただし私は、一度も足を運んだことがない。
必要ない、とまでは言わないが、私の興味の範疇にはない。

こんな形で、郷里の話題に接するのは何とも寂しい。
暗澹とした気分になる。
こんな教師から教えを受けていた生徒たちの心中を察すると。
教育とは何だろう、と根源的な問題まで立ち返らざるを得ない。

オートレースが悪い、と言っているわけでは決してない。
たとえオートレースがなくとも、この教諭は道を踏み外していたことだろう。
だが、このニュースのタイトルに反応してクリックした私。
そしてその予感が的中してしまった時の私。
この気持ちにどう対処すべきなのか。

ふるさとは遠きにありて想うもの、とはよく言ったもので。
離れてみてこそよく見えてくる事柄もある。
意識はつねに向けられている。

身勝手な言い分かもしれないが、故郷という存在は、私の命の続く限り永遠に
そのままであってほしい。
だからこそ「帰る」ことができる。
物理的にも、精神的にも。

帰る場所が揺らいでいては、安心して足を運ぶことができないではないか。




実録・九州やくざ戦争 完結編 ~筑豊頂上戦争~的場浩司GPミュージアムソフト  2006-05-25売り上げランキング : 71509Amazonで詳しく見る by G-Tools





 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/autorace-and-education</link>
			</item>
	<item>
		<title>よみがえるカトーさん</title>
		<description>ブルース・リーの「グリーン・ホーネット」リメイクにチャウ・シンチーの噂？（eiga.comより）

『グリーン・ホーネット』は、1966年から67年にかけて米国で放送された
人気TVシリーズ。30分１話完結。
昼はデイリーセンチネル新聞社の若き社長として活躍する青年ブリット・リード
が、夜はコートと仮面に身を包み悪と闘う謎のヒーロー「グリーン・ホーネット」
と化す。言うまでもなく当時の大ヒット作品『バットマン』の影響が強い。
バットマンにはロビンという相棒がいたように、グリーン・ホーネットには
カトーという助手がいる。昼は社長付きの運転手として行動を共にし、夜は
空手とダーツ（投げ矢）の名手として主人を守り支える最強のパートナー。
このカトー役を演じていたのが若き日のブルース・リー。シアトルで細々と道場を
運営していた頃。彼の名を世に知らしめた出世作といえる。
番組でも主役のグリーン・ホーネットより脇役のカトーの方が目立ってしまい、
それに嫉妬した主演俳優が番組からの降板を希望したため高視聴率であったにも
かかわらず打ち切られた、という逸話もある。真偽の程はわからない。
リーにとってもTVサイズのスクリーンでは動きに制限があり、自分の技が存分に
表現できないことに不満を抱いていたようだ。そこから彼の映画への情熱が燃え
上がる。つまり『グリーン・ホーネット』はブルース・リーにとっての重要な
ターニングポイントであったといえる。

その『グリーン・ホーネット』がこのたびコロンビア・ピクチャーズによって
劇場映画版としてリメイクされるようだ。
カトー役には、あのチャウ・シンチーを起用する計画があるらしい。
実に興味深い。

チャウ・シンチー（周星馳）は今や香港を代表する俳優であり、映画監督であり
プロデューサーである。1962年06月22日生まれ。ちなみに日本に馳星周という
作家がいるが、このペンネームはチャウ・シンチーのファンである彼が「周星馳」
の文字を組み替えたものを採用したためである。

日本では『少林サッカー』(少林足球、2001)および『カンフーハッスル』(功夫、
2004)で一躍その名を知られるようになったこともあり、カンフー畑の人かと
思われがちだが、実はカンフーは彼の中では表現の一形態に過ぎない。
彼の中に流れる血は、おそらくは『Mr.Boo!』あたりから脈々と受け継がれている
香港産のドタバタコメディ作品に由来するものと推測する。
とはいえリーの存在は彼にとっても神であり、香港小龍會（香港ブルース・リー
ファンクラブ）の名誉会長も務めているほどの筋金入りの大ファンである。
そんな彼が、リー作品のリメイクに携われるというのは。
とてつもなく幸せな出来事なのではなかろうか。

しかし彼は、おそらくは現在最も忙しい香港人のひとりだと思う。
今年は『少林少女』のプロデュースを始めとして、ファンタジー作品
『ミラクル７号』の公開、さらにあの『ドラゴンボール』の実写版のプロデュースも抱えている。
そんな彼に、新たな作品を請け負うだけの余裕があるのだろうのか。

そして最も気がかりなのは。
彼自身の撮りたい作品が撮れているのだろうか、ということ。

かつて私は、チャウ・シンチー作品のみを集めたオールナイトの映画祭に参加した
ことがある。
彼の作品に共通しているのは、愚かしいほどに自身の夢に向かって突き進む男の
姿、そしてそれに翻弄される女。それらを伝統的とも呼べるコメディの手法で
表現する。ある意味『男はつらいよ』にも似たペーソスの世界。
彼は“人間”を描きたいのだ、と思う。

近作において、彼はそれらのイメージから脱却したいと願っているのかもしれない。
エンターテイメント色の強い作品ばかり。
それは、彼の本分なのか。
今のところは、未知数である。
だが彼のファンとしては、どういう形であれ彼の活躍を知ることができるのは、
大変に喜ばしい。信じた道を邁進していってほしい。

もうひとつ、特筆しておきたいのは。
彼の作品に登場する女性（ヒロイン）の質の高さ。
『食神』ではカレン・モク、『喜劇王』ではセシリア・チャン、そして『少林
サッカー』ではあのヴィッキー・チャオを大抜擢し、いずれもスターダムに
押し上げた。
女性を見る目の確かさは、彼の大きな武器だと思う。
私などは彼の作品を観る際にはその点を楽しみにしているほどだ。

現代の香港映画は、『インファナル・アフェア』シリーズに代表されるような
裏社会での愛と裏切りがテーマとなる作品がもてはやされている。
それも悪くはないのだが、私の愛する“香港”はそこにはない。

チャウ・シンチーが、香港映画の最後の砦となりつつある。
だから私は、全力で彼を応援しようと思う。これからも。




ブルース・リー IN グリーン・ホーネットブルース・リーハピネット・ピクチャーズ  2002-04-25売り上げランキング : 56148おすすめ平均  Amazonで詳しく見る by G-Tools



 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/remake-the-green-horne</link>
			</item>
	<item>
		<title>【VIDEO】Theresa Andersson - &#8216;Na Na Na&#8217;</title>
		<description>“ベッドルーム・ミュージック”という言葉がある。
録音機器などの発達により、音楽家はスタジオから解放された。
自宅で個人がすべてのプロデュースをこなし楽曲を完成させる環境が整ってきた。
特にテクノの分野ではこの傾向が強い。個人のアイデアがダイレクトに市場へ。
寝室から、ダンスフロアへ。
インターネットそのものの在り方にも似ている。

Theresa Andersson（テレサ・アンダーソン）は寝室ではなく、台所から発信
している。全世界へ。いわばキッチン・ミュージック。
台所の音響は素晴らしい、と彼女は言う。彼女にとっての必然だったのだろう。
寝室が自分自身との対話というパーソナルな空間であるのに対し、台所は料理を
創造し、提供することで自分かつ他者を元気づけることもできる。家族においては
貴重なコミュニケーションの場としてしばしば機能する。
ポップミュージックが誕生するには最もふさわしい場所といえるかもしれない。

スウェディッシュ・ポップの特徴は、その親しみやすさ、人なつこさ。
スウェーデン人であるテレサの音楽にも、その伝統が受け継がれているようだ。
テクノロジーを駆使しながらも、紡ぎ出されるメロディーは暖かい。
寒い国の人々はきっと、人の暖かみを誰よりも知っている。

ベッドルームから、一歩前へ。
彼女のつくり出す極上の料理が、世界の人々を優しくもてなす。



ネタ元：「台所のワンウーマン・バンド」動画が人気（WIRED VISIONより）



Theresa AnderssonTheresa AnderssonBasin Street  2006-05-30売り上げランキング : 497667Amazonで詳しく見るby G-Tools



 </description>
		<link>http://obsqr.symphonic-net.com/f_psyche/theresa-andersson-plays-in-kitchen</link>
			</item>
</channel>
</rss>
