血でギャグを書く

書く

「書く」ことがガンに対して効果的だという研究が発表されるGIGAZINEより)

書くという行為そのものがガンに有効、というわけではなく
自分の病気に対して真正面から向き合うための「作法」として
考えを筆記する、という行為が有益である、という当然といえば
当然の研究発表。

自分の考えていることをまとめる上で、紙に書き記すことは大切だと思う。
筆が紙の上を滑る音。インクの匂い。興が乗ってくれば、快楽にもなる。
文章を紡ぎ出すのは、脳だけではない。
肉体的な運動により、五感のすべてを使って自分自身を刺激しながら
集中し、没頭する。時の経つのを忘れ、寝食を忘れ、やがて余計な自意識からも
解放される。あたかも仏道修行に近い境地。
そこから“血の通った”文が出来上がるのではなかろうか。
装飾のない、嘘偽りのない、自然な表現。名文はきっと紙から生まれる。

人間にとって、自らと向き合うのは、苦しい。
それでも敢えてやらねばならぬ時もある。
紙と筆は、導入への舞台装置。
果てなき思索への道は、その腕で切り拓くべきだ。
さもなくば、深淵へたどり着くことはかなわない。

現代では日常生活において筆を握る機会がすっかり減ってしまった。
これは間違いなく人間の退化を促す結果になると思う。
私ももはや、単純な漢字が思い出せないケースに多々遭遇するようになって
しまった。そして愕然とする。

私は「書いて」いないのだ。
ここobsqrでの私の手による文章は、厳密に言えば私の「手」を経ていない。
PCを通じて著される、まぼろしではないのか。そう考えたくもなる。
書いたつもりでいて、本当は最初から何にも書いてはいないのではないか。
すべてが夢ではないのか。

肉体運動と切り離された文章構築。
そこから前述の“血の通った”文章を生み出すことはできるか。
これは私にとっての闘いである。

もちろん、大病を患っているわけでもない。
やめようと思えばいつでもやめられる。
だがひとたびやめてしまえば、そこから私の中で「病魔」が進行を始める。
その時点で私という存在は、死んだも同然。

存在証明、などといえばいかにも大層な響きで誠に気恥ずかしくなるが。
私が日夜キーボードを叩き続けるのは、私なりの「自分と向き合う」行為であり
私なりの存在証明なのだと思う。

ガン患者に限ったことではないのだ。
むしろガンにでもならなければ自分と向き合えないなどというのは、悲しい。

いつ死んでも悔いはないと心から思える文章を、書いてみたいと切に願う。

書けたらその場で死んでしまうのかもしれないが。


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