悔い改めよ新珠三千代
懺悔を聞こうとした偽聖職者が捕まる、サンピエトロ大聖堂(AFPBB Newsより)
懺悔は本来「さんげ」と読む仏教用語であり、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、
師の御前にて告白し、悔い改めることを意味するらしい(Wikipediaより)。
「ざんげ」と読むのはキリスト教独自のものだが、現在ではこちらの方が一般に
定着している。それだけ懺悔という行為が、キリスト教において特に強い印象を
一般に与えている、といえるかもしれない。象徴的、というか。
基本的に仏教は「許す」宗教であり、キリスト教は「戒める」宗教だと思う。
語弊があったら申し訳ない。私の個人的な見解である。
他人のプライヴェートな告白(あるいは秘密)を聞きたいという心理。
人間の本質的な欲望のひとつではないかと思う。
誰にも言わないでね、という前置きのもとに始められる打ち明け話は、蜜の味。
相談を持ちかけられた側にとっては、自分が「選ばれた者」であるという喜びを
得ることができる。日常において、そういう感覚を味わう機会はそう多くない。
相談者側の立場では、どうだろう。
むしろ、聞いてくれる相手は誰でもいいのではないか。
聖職者でなくとも。
自分との日常における関係性が、より遠い存在であれば。
旅先で知り合った見ず知らずの人に、身の上話を語ってしまうあの感覚。
聖職者はおそらく、問題を解決しない。
ただ吐き出させるだけ。
そこから相談者自らが答えを導き出す。
たいていの相談事は、そうやって収束していく。
相談する時点で、すでに答えは出ているのだ。
ならば懺悔室で待ち受けるのが必ずしも聖職者である必要はない。
まったく赤の他人である方がかえって都合がいい。
敬虔な信徒であれば教会には何度も足を運び、祈りを捧げていることだろう。
そうすることによって聖職者との面識も少なからず生まれるはず。
双方が完全に外観を隠す環境であれば問題はないのかもしれないが。
映画などで見る限りは、プライヴァシーが保たれた空間であるようにも思えない。
聖職者は神との「仲立ち」に過ぎない、と割り切ることができるかどうか。
そもそも長年悩みを抱える人に、そんな精神的余裕があるのかどうか。
捕まった偽聖職者は、場合によっては本物の聖職者よりも「役に立つ」ことが
あったかもしれない。
私は過去にあの店で盗みをはたらきました。
店がつぶれてしまったのは私のせいではないかと悩んでおります。
ああ、あの店ですね。あそこの商品は品質も良くなかったし、店員の態度も
最悪だった。つぶれて良かったんですよ。よくぞつぶして下さった。あなたには
神のご加護があります。ええありますとも。
などと聖職者が言うことはまずないが、あってもいいのではないかと思う。
純粋なる「相談」であれば、人生経験の豊富な人物に持ちかけるのが妥当である。
聖職者と呼ばれる人々が人生経験豊富であるかと問われれば、そこは疑問だ。
神の立場でものを考えることはできるだろうが、相談者の立場には立てないと思う。
懺悔は、どこまでいっても宗教的な「儀式」であり。
システムではあるが、コミュニケーションとしては成立していない。
聖職者の役割とは、何だろう。
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師の御前にて告白し、悔い改めることを意味するらしい(Wikipediaより)。
「ざんげ」と読むのはキリスト教独自のものだが、現在ではこちらの方が一般に
定着している。それだけ懺悔という行為が、キリスト教において特に強い印象を
一般に与えている、といえるかもしれない。象徴的、というか。
基本的に仏教は「許す」宗教であり、キリスト教は「戒める」宗教だと思う。
語弊があったら申し訳ない。私の個人的な見解である。
他人のプライヴェートな告白(あるいは秘密)を聞きたいという心理。
人間の本質的な欲望のひとつではないかと思う。
誰にも言わないでね、という前置きのもとに始められる打ち明け話は、蜜の味。
相談を持ちかけられた側にとっては、自分が「選ばれた者」であるという喜びを
得ることができる。日常において、そういう感覚を味わう機会はそう多くない。
相談者側の立場では、どうだろう。
むしろ、聞いてくれる相手は誰でもいいのではないか。
聖職者でなくとも。
自分との日常における関係性が、より遠い存在であれば。
旅先で知り合った見ず知らずの人に、身の上話を語ってしまうあの感覚。
聖職者はおそらく、問題を解決しない。
ただ吐き出させるだけ。
そこから相談者自らが答えを導き出す。
たいていの相談事は、そうやって収束していく。
相談する時点で、すでに答えは出ているのだ。
ならば懺悔室で待ち受けるのが必ずしも聖職者である必要はない。
まったく赤の他人である方がかえって都合がいい。
敬虔な信徒であれば教会には何度も足を運び、祈りを捧げていることだろう。
そうすることによって聖職者との面識も少なからず生まれるはず。
双方が完全に外観を隠す環境であれば問題はないのかもしれないが。
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聖職者は神との「仲立ち」に過ぎない、と割り切ることができるかどうか。
そもそも長年悩みを抱える人に、そんな精神的余裕があるのかどうか。
捕まった偽聖職者は、場合によっては本物の聖職者よりも「役に立つ」ことが
あったかもしれない。
私は過去にあの店で盗みをはたらきました。
店がつぶれてしまったのは私のせいではないかと悩んでおります。
ああ、あの店ですね。あそこの商品は品質も良くなかったし、店員の態度も
最悪だった。つぶれて良かったんですよ。よくぞつぶして下さった。あなたには
神のご加護があります。ええありますとも。
などと聖職者が言うことはまずないが、あってもいいのではないかと思う。
純粋なる「相談」であれば、人生経験の豊富な人物に持ちかけるのが妥当である。
聖職者と呼ばれる人々が人生経験豊富であるかと問われれば、そこは疑問だ。
神の立場でものを考えることはできるだろうが、相談者の立場には立てないと思う。
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