検索脳は検査不能
たとえば、パソコンのハードディスク。
ファイルをゴミ箱に移動して、さらにそのゴミ箱を空にしても。
あるいは「削除」コマンドを実行したとしても。
その時点では、ファイルそのものはまだディスク内に残っている。
ファイルを完全に消去したわけではなくて、ファイルの在処を記録した
インデックス(目次)を見えなくしただけのこと。
修復ツールを使えば、元通りに復元させることはできる(元データが損傷していない限りにおいて)。
完全に消去するには、そのファイルがあった場所に新たにデータが
「上書き」される必要がある。上書きはツールで意図的に行うこともできるが
パソコンをそのまま使い続けることで、新しいデータがその「空きスペース」
に書き込まれる。その時点で「消去」が成立する。
人間の、いわゆる記憶喪失という症状(Wikipedia:「健忘」参照)。
あれもおそらくは、脳内のインデックスが損傷した状態なのだろうと思う。
記憶を完全に失ったわけではないが、記憶の「在処」がわからない。
インデックスを再構築することに成功すれば、記憶はよみがえる。
いわばゴミ箱を空にするというコマンドは、人間に置き換えれば
「忘れる」という行為にあたるものと思われる。
存在を見えなくする。便宜上ないものと考える。
脳の記憶容量がどのくらいのものなのかは知らないが、たぶん人間は
かなりのことを細かく記憶しているのではないか。
そして通常の生活において特に必要のないものはどんどん「忘れる」。
内容によっては何かの拍子にふと思い出すことがあるかもしれない。
それもやがては消え失せる。主に脳細胞の消滅によって。
ハードディスクのように上書き、といかないところが有機生命体の悲しさか。
NHK『爆笑問題のニッポンの教養』を毎回楽しみにしている。
昨夜の放送では国立情報学研究所の高野明彦教授を採り上げていた。
専門は「連想情報学」。
キーワードに頼る従来の検索方式から一歩進んだ、新しいかたちの
情報検索システム(質問文のような漠然とした表現からユーザーの関心を
類推し、関連情報を提供する)を追究しているようだ。連想検索というらしい。
番組ではその例として『想ーIMAGINE Book Search』を紹介していた。
以前に私は書店での本選びの楽しさをブラウザ上で再現するのは
無理だ、という内容の記事を書いたが、ここではその環境に少しでも
近づけようという努力と工夫が施されていて、驚いた。
高野教授は神田神保町での古書店巡りが好きなのだそうだ。
やはり、あの感覚を味わいたい、という思いが強くあるのだろう。
検索脳という言葉がある。
インターネットに精通するということは、すなわち検索脳を養うことに
他ならない。
検索サイトを使いこなす。
より最適なキーワードを見つけ、最も「ふさわしい」情報に最短の時間で
到達する。その技術の優れている人こそが、ネットの達人とされる。
ただ、キーワードを見つけるのが、すこぶる厄介なのだ。
持てる限りのボキャブラリーを駆使して、関連語を探さねばならない。
検索にはコツが必要である。現状では。
たどり着けない人には永遠にたどり着けない。
デジタル・ディバイド(情報格差)からさらに進んだサーチ・ディバイド
(検索格差)という言葉もすでにある。
上記の連想検索は、その点を手助けすべく考えられたものと思われる。
サーチ・ディバイドを是正するための切り札。
誰もが簡単に、より最適な情報へ。
それはインターネットがさらに進化するための突破口となるに違いない。
ところで、太田光が番組内で印象的な言葉を発していた。
検索エンジン使ってるとさ、だんだん恐くなるんだよね。
ああこの項目についてはあそこに書いてあったから、覚えておかなくても
必要になりゃまたこのキーワードで検索してあそこに行けばいいやって
考えるようになっちゃう。自分で覚えようとしなくなるんだよ。
なんかインターネットに自分の脳の一部を肩代わりさせてるような気がしてさ。
ずっとネット社会に接していると、境界線が曖昧になってくる。
これは自分が考えたことなのか。
それとも他の誰かが考えたことなのか。
知識を共有するということは、「脳」も共有することになるのだろうか。
擬似的に。あるいは本質的に。
個性とは、各々のインデックスをせっせとつくるだけの作業なのか。
連想検索は素晴らしい。
が、インターネットが便利になればなるほど。
何か大切なものを失いそうな気もする。
途方もない代償を支払うことにつながりそうな気もする。
太田はそこに漠然とした不安を抱えているようだ。
私自身は。
確かに不安もあるが。
その先を見てみたい、という気持ちの方が勝る。
つながるなら、とことんまでつながろうじゃないか。
ファイルをゴミ箱に移動して、さらにそのゴミ箱を空にしても。
あるいは「削除」コマンドを実行したとしても。
その時点では、ファイルそのものはまだディスク内に残っている。
ファイルを完全に消去したわけではなくて、ファイルの在処を記録した
インデックス(目次)を見えなくしただけのこと。
修復ツールを使えば、元通りに復元させることはできる(元データが損傷していない限りにおいて)。
完全に消去するには、そのファイルがあった場所に新たにデータが
「上書き」される必要がある。上書きはツールで意図的に行うこともできるが
パソコンをそのまま使い続けることで、新しいデータがその「空きスペース」
に書き込まれる。その時点で「消去」が成立する。
人間の、いわゆる記憶喪失という症状(Wikipedia:「健忘」参照)。
あれもおそらくは、脳内のインデックスが損傷した状態なのだろうと思う。
記憶を完全に失ったわけではないが、記憶の「在処」がわからない。
インデックスを再構築することに成功すれば、記憶はよみがえる。
いわばゴミ箱を空にするというコマンドは、人間に置き換えれば
「忘れる」という行為にあたるものと思われる。
存在を見えなくする。便宜上ないものと考える。
脳の記憶容量がどのくらいのものなのかは知らないが、たぶん人間は
かなりのことを細かく記憶しているのではないか。
そして通常の生活において特に必要のないものはどんどん「忘れる」。
内容によっては何かの拍子にふと思い出すことがあるかもしれない。
それもやがては消え失せる。主に脳細胞の消滅によって。
ハードディスクのように上書き、といかないところが有機生命体の悲しさか。
NHK『爆笑問題のニッポンの教養』を毎回楽しみにしている。
昨夜の放送では国立情報学研究所の高野明彦教授を採り上げていた。
専門は「連想情報学」。
キーワードに頼る従来の検索方式から一歩進んだ、新しいかたちの
情報検索システム(質問文のような漠然とした表現からユーザーの関心を
類推し、関連情報を提供する)を追究しているようだ。連想検索というらしい。
番組ではその例として『想ーIMAGINE Book Search』を紹介していた。
以前に私は書店での本選びの楽しさをブラウザ上で再現するのは
無理だ、という内容の記事を書いたが、ここではその環境に少しでも
近づけようという努力と工夫が施されていて、驚いた。
高野教授は神田神保町での古書店巡りが好きなのだそうだ。
やはり、あの感覚を味わいたい、という思いが強くあるのだろう。
検索脳という言葉がある。
インターネットに精通するということは、すなわち検索脳を養うことに
他ならない。
検索サイトを使いこなす。
より最適なキーワードを見つけ、最も「ふさわしい」情報に最短の時間で
到達する。その技術の優れている人こそが、ネットの達人とされる。
ただ、キーワードを見つけるのが、すこぶる厄介なのだ。
持てる限りのボキャブラリーを駆使して、関連語を探さねばならない。
検索にはコツが必要である。現状では。
たどり着けない人には永遠にたどり着けない。
デジタル・ディバイド(情報格差)からさらに進んだサーチ・ディバイド
(検索格差)という言葉もすでにある。
上記の連想検索は、その点を手助けすべく考えられたものと思われる。
サーチ・ディバイドを是正するための切り札。
誰もが簡単に、より最適な情報へ。
それはインターネットがさらに進化するための突破口となるに違いない。
ところで、太田光が番組内で印象的な言葉を発していた。
検索エンジン使ってるとさ、だんだん恐くなるんだよね。
ああこの項目についてはあそこに書いてあったから、覚えておかなくても
必要になりゃまたこのキーワードで検索してあそこに行けばいいやって
考えるようになっちゃう。自分で覚えようとしなくなるんだよ。
なんかインターネットに自分の脳の一部を肩代わりさせてるような気がしてさ。
ずっとネット社会に接していると、境界線が曖昧になってくる。
これは自分が考えたことなのか。
それとも他の誰かが考えたことなのか。
知識を共有するということは、「脳」も共有することになるのだろうか。
擬似的に。あるいは本質的に。
個性とは、各々のインデックスをせっせとつくるだけの作業なのか。
連想検索は素晴らしい。
が、インターネットが便利になればなるほど。
何か大切なものを失いそうな気もする。
途方もない代償を支払うことにつながりそうな気もする。
太田はそこに漠然とした不安を抱えているようだ。
私自身は。
確かに不安もあるが。
その先を見てみたい、という気持ちの方が勝る。
つながるなら、とことんまでつながろうじゃないか。







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